子どもが大人に成長していく大事なナイーブな思春期だからこそ、周りの大人は気をつけてほしい。

あるところに女の子がいました。
小学生。中学年から高学年に差し掛かるころでした。
女の子は女の子なんだけど、自分が女の子だとは思えなくてというか、思いたくなくて・・・そんなことを思うようなことがあったんだって。

占いが好きなお母ちゃんは、言いました。

「あんたは、外見は女の子だけど、中身は男の子よな。
おしゃれ気もないし、装ったりもしないし、
茶目っ気もないしな。」
何度も何度も繰り返すのが、このお母ちゃんでした。
女の子の心は傷ついたんだ。


文房具屋のおばちゃんは、言いました。
「安産体形だね、ふふふ。」

え~!!どういうことなん!おばちゃん!!

おばちゃんは、ただ単に下ネタが好きなだけのおばちゃんだったのかもしれない。
でもさ、思春期の頃の女の子にはそれはないでしょって言いたいね。
お母ちゃんも、そんなこと言ってたよって同じように笑ってさ。

女の子の心は傷ついたわけさ。


ある日、散歩しているとね、隣のおばちゃんに会ってさ。
その日は、通り際にいきなり胸をグイってつかまれたの。
「成長しとる、成長しとる」って言われたわけさ。



また、ある日は、お父ちゃんは言いました。
「おめえは、〇〇〇じゃのお」
これぞほんまのセクハラじじいじゃ。

女の子は何にも考えていなかったんだけど、そんなことが起こるもんだから、いつしか大人は汚い。大人は怖い。親は何もしてくれなかった。ただ傷つけられただけだった。
思春期の複雑な時にさ、自分が女の子から女性に変わる時期にさ、そんなことをする大人もいる。

そんな女の子は自分が女の子だということを認められずに、どこかでそんなことは思ってはいけないんだって思ったりしたり、でも身体は変わるわけで・・・。でも、なんか複雑で複雑でという時期を過ごすことになったんだ。

七五三には着物を着て、
学校ではスカートを履き、家ではもっぱらズボン。
成人式では着物を着て、
卒業式では袴を着せてもらって
結婚式では着物とドレスを着せてもらい
一応、女性として着せてもらえるものは着せてもらえた。
お母ちゃんは、女性としてのやることは全部やったといっていたんだ。

とうの女の子はというと、
やっぱり、心のどこかで女の子っていう変な違和感というか、
自分の女の子の部分を認められないというか、大切にできないというか
そんなところがあるなってうすうす気づいていたりしてね・・・・。


大人になった女の子は考えた。なんで、こんなんなんだろう。
なんでこんなことを思うのだろうか・・・と。
自分に自信があるか?
ないよ。
自分が好き?
いいえ。嫌いだよ。自分を誇れるものなんてないし、ね。
自分がだめだから、嫌いだから、これをやったら自分に自信つくかな?
勉強すればとか、いいこでいればほめてくれるかなって思ってた。
第一、こんな私がなんでこんなところにいるのか分からないし・・・。
早く消えてしまいたいとか、思ったわけさ。
早く消えてしまいたい、そんなこと言っちゃいけないよ。と、空から言葉が飛んでくる。
でもね、わいてくるんだよ。そんなこと思うの、子どもの時からだからねえ。

女の子がお父ちゃんやお母ちゃんにほしかったものってこんな感じ。
どんな私も、いいときの私も機嫌が悪いときの私もちゃんと認めてほしかったの。
私はちょっと嫌なことがあるとね、ふてたり、じたんだふんだり、部屋にこもって出てこなかったり、モノを投げまくったり、自分の思いをなかなか言葉にできなかったから腹が立って腹が立ってね。どうしようもなかった子どもだったの。その解決策も自分じゃ分からなかったしね。登校拒否もしたね。そうするしかなかったから。大嫌いな同級生に会いたくなかったし、からかってくる上級生にも会いたくなかったし。今考えると、自分の行ったことに対して反応してくる相手というのは面白いらしくて、からかわれたんかなって思う。その子はその子で家庭で何か嫌なことでもあったから、学校でそういうことしていたんかなって。そのターゲットは私みたいに何も言わない、何も言い返してこない子、とか。そんな風に感じている。

お父ちゃんやお母ちゃんに対してはこんな風に思ってる。

お父ちゃんもお母ちゃんもどっちもしゃあない人だ。大人になっても心のどこかで期待しちゃったりしてさ、いつか分かってくれる、いつかふざけて言うんじゃなくて、本心からほめてくれるはずって期待しちゃったりしてたけど、どうも無理みたいだわ。
それにねえ、どうも私に抜けているところが、他の周りの人が見せてくれるわけさ。こういうところが足りないよって見せてくれるの。
こういう気持ちで、こういう姿勢でするんだよ。こういう考えを持っているといいよとか、こういうことが大事だよとか。

本当はどうするべきだったのか、言ってくれなかったって恨んでいたけどね、
そもそもが間違っていたことにも気づいた。
お父ちゃんやお母ちゃんには、そのことを考えたことがなかった。
そのことに気づくことがなかった。
第一、私は、そのことを分かっていないということ、分かりたいということを思っていることに気づいていなかった。気づけないものは、どうしようもない。
相手は変えられない。自分が自分のことをどう思うかは変えられるけど、相手が自分のことをどう思うかは変えられないからさ・・・・。結局、そう思って腹を立てている自分のことを受け入れて、認めて、赦して、感謝するしかなくてさ・・・・。


周りの人たちは、いろんなことを教えてくれます。
依然の女の子は、何か誰かに嫌なことを言われると、
「嫌なことを言われた。」だけでした。
本当にそれだけでした。そのこと、何が嫌なのかということに目を向けていませんでした。
「嫌なことを言われた」それもそうですが、これを
「教えてもらえた」と思うだけで、受け取り方が少し変わってきたような気がします。

この世は実験室。ちょっとずつでも受け取り方を変えていけば、いろんなものが受け取れたり、いろんな角度をつけて発信できたりするのかなって思ってきました。

嫌なことも何かの気づきになる。
明日は昨日よりはよくなる。
明日はいい日になる。
何があっても最後には「ありがとう」っていいたいの。
そんなわたしでいたいなって思ってます。
cyuro


うらら のたんぽぽ畑

うらら りかといいます。アート遊びが好きです。うららりかの世界に訪問していただきありがとうございます。 たんぽぽのように地に足を付け、春になったら、花が咲き、綿毛になっても遠くまで「思い(LOVE)」を飛ばしていけるような、そんなアート活動をしていきます。Urara No Mori というショップを作りました。

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